写真は模擬天守の「伏見桃山城」です。
近鉄京都線に乗ってると東の方向に見えてくるのがこのお城です。間違う人も多いですがこれは伏見城ではなく、伏見城花畑跡だったところに遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が1964年に作られました。遊園地は2003年に閉園しましたが、今はこの伏見桃山城だけ残されています。
本物の伏見城ですが初期の指月伏見城の石垣やお堀の跡が見つかったとのニュースが!
この発見によりお城の中心部が確認され、「幻の城」と言われた豊臣秀吉の隠居所「指月伏見城」の存在が明らかになりました。
幻の指月伏見城 全容解明へ
Photo by:小倉商事(伏見指月城の石垣など)
6月19日(金)の京都新聞に「幻の伏見城」石垣、中心部を初確認との記事を発見!
聚楽第(じゅらくだい)跡で確認された石垣と様式が酷似していることや、城を彩った金箔瓦も大量に見つかったことで確実なものとなりました。
秀吉「幻の伏見城」石垣、中心部を初確認 自然石、聚楽第と酷似 : 京都新聞
秀吉の指月城、ミステリー解けるか 初期の伏見城、痕跡残る : 京都新聞
伏見城ですが、実は「指月伏見城」と「木幡山伏見城」の2つ存在します。
理由は大きな地震により「指月伏見城」が倒壊してしまい、場所を移して新たに建てられたのが「木幡山伏見城」になるのです。
指月伏見城
築城は1594年で、場所は今回発見された京阪宇治線の観月橋駅から北東方向にある観月橋団地なのです。つまり団地の下に指月伏見城跡があることになる。
もし団地を建て替えることがなければ「指月伏見城」を復元することも出来るかもしれない。
木幡山伏見城
翌文禄5年(1596年)7月12月深夜から13日にかけて地震が起こった。
火災は起きなかったようで櫓や殿舎の木材などが再利用できたことにより、地震が起きた2日後の7月15日に木幡山伏見城の作事が着手された。本丸が完成したのは同年10月10日と凄いスピードで再建されたことがよく分かる。
豊臣秀吉は大阪城と伏見城を行き来していたが、晩年は伏見城で過ごすことが多く、豊臣秀吉が亡くなったのがこの木幡山伏見城なのです。
1600年に小早川秀秋、島津義弘連合軍が鳥居元忠が城代となっている伏見城を攻城して8月1日に炎上落城した。その後、徳川家康が1602年に木幡山伏見城を再建している。
徳川家康も江戸城と伏見城を行き来しており、伏見城はもっとも重要なお城だったことがよく分かります。
伏見城の時代区分
第1期 (1592〜1593年) 豊臣秀吉の隠居屋敷の造営
第2期 (1594〜1595年) 豊臣秀吉の指月の岡と向島築城
第3期 (1596〜1600年) 豊臣秀吉の木幡山築城
第4期 (1600〜1606年) 徳川家康の木幡山築城再築
第5期 (1607〜1623年) 徳川秀忠、家光の改修・破却
木幡山伏見城跡は明治天皇伏見桃山陵に
木幡山伏見城跡はどうなっているのか?
実は明治天皇伏見桃山陵になっているのです。そのため立入禁止の場所となっていることで、木幡山伏見城の発掘調査が出来ないのである。だから伏見城の復元をすることが出来ないとも言える。
今回、指月伏見城がハッキリしたことで城跡としての復元の可能性も出てきたかもしれない。再開発されたらおしまいだけど。。。
-天皇陵-明治天皇 伏見桃山陵(めいじてんのう ふしみのももやまのみささぎ)
本日のまとめ
伏見城は歴史的にとても重要な場所です。この発見を機に跡地の復元されることを望む。
今回記事を書くのに色々と調べていたら伏見城とともに「向島城」もあったことを知る。伏見城から宇治川を挟んだ南側に築城されてたようだ。
今は住宅地となり城跡を伺わせるものはないようだが、「向島本丸町(MAP)」や「向島二ノ丸町(MAP)」の地名として残っている。
指月伏見城や向島城があった場所は普段から車で走っているので、415年前に豊臣秀吉や徳川家康が居たのだと思うととても凄いことである。